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LUXIDEA中山雅紀 JA/English

アーティスト・ステートメント

見ることの条件

v1.0 · 日本語

Art is a new perspective.Science is a new perspective.Buddhism is a new perspective.I make them interchangeable.

見るという行為は、そのつど、世界とそれに向き合う者の立場とのあいだに関係を結ぶ。一つの視点は何かを見えるようにすると同時に、そこから見渡せる範囲を定めている。私の制作は、その限界が知覚されるところから始まる。芸術を通して求めているのは、経験を理解する枠組みそのものが変わるような出会いである。慣れ親しんだ世界の輪郭を越えて、なお世界が広がっていることを、鑑賞者自身が発見する。その可能性を作品にひらきたい。

宇宙は、それを理解しようとする知性の尺度を超えている。その数理的秩序は理解を可能にしながら、理解されたことの限界を絶えず露わにする。理解しうることと、汲み尽くしえないこと。この緊張のうちに、私の制作を動かす〈数学的摂理/Mathematical Providence〉への感覚がある。秩序を捉えることは、その秩序に向き合った想像力をも超える関係の広がりへと踏み入ることである。知ることの可能性と、圧倒される経験は、ともに生じる。

私にとって数学は、注意を向けるための媒体である。それは関係を知覚に開き、思考に、感覚を通して出会うことのできる形を与える。理解可能な構造が、身をもって感じられる経験へと移る。その移行に、美的な出来事が生まれる。いかなる対象も、その出発点となりうる。私の探究を支えるのは、習慣的な見方のもとで見過ごされていた関係を作品が開示し、世界への注意の向け方を変えるほどの存在感を、それらに与えうるという可能性である。

この制作観は、芸術的な発明を通して可視性の条件が変容してきた美術史と接続する。モホイ=ナジの「ニュー・ヴィジョン」に連なる写真の実験は、視点と像の成立の仕方を変えることで、見ることの可能性を拡張した。1 幾何学的抽象、そしてヴェラ・モルナーによる形態の体系的な探究は、秩序、変異、知覚の関係を問う、もう一つの領域をひらいた。2 私はこれらの歴史を重ね合わせることで、制作の中心にある問いを明確にできる。作品を構成することは、いかにして認識の可能性を構成することにもなるのか。

コンセプチュアル・アートとコンピューター・アートは、この問いにさらに明確な輪郭を与える。ソル・ルウィットによる指示の使用は、作品の構想と実現の関係を明示し、計算による芸術はその関係を組織する可能性を広げた。3 河口洋一郎によるCGの探究を含む、成長や人工生命をめぐる研究も、形が成立する過程を芸術の問いとして展開してきた。4 この広い歴史のなかで、私は作家性を、何かが知覚可能になる条件を引き受ける責任として捉える。制作上の判断は、構造、現れ、そして出会いのあいだに関係を成立させる。作品には、その判断によっても予見し尽くせない帰結へと開かれている余地がある。

美が私にとって重要なのは、経験を判断する尺度を揺るがしうるからである。崇高をめぐる美学の伝統では、人を圧倒するものとの遭遇において、驚嘆と畏れが交わる。5 私が求めるのは、その遭遇が、自分の立つ場所への理解をも変える可能性である。慣れ親しんだ世界だけで事足りていた感覚が、途方もない広がりの感覚へと変わる。世界そのものの尺度と思われていたものが、その内部にある一つの尺度として姿を現す。畏怖とは、その認識の揺らぎを身をもって感じることである。

この揺らぎを介して、美的経験は、私の実践において、仏教における執着からの解放と結びつく。一つの見方は自己の感覚と深く結びつき、その限界が現実そのものの権威を帯びることがある。仏教への私の関心は、この同一化をほどく可能性に向けられている。自らの立場がさまざまな条件のもとに成立していることを認めながらも、私たちは世界に深く関わり、注意を向け続けることができる。新たに獲得した視点も、再び問い直されうるものとして保たれる必要がある。私の求める自由は、ある立場を握りしめる確信を、繰り返し手放していく力を要する。

この姿勢の倫理的な帰結は、理解することと、理解によって相手を囲い込むこととの関係にある。自分の分類によって他者を捉え尽くせると信じるとき、その分類を超えるものと出会う可能性は閉ざされる。知覚の限界を意識することは、異なる生、異なる歴史、異なる理解のあり方を受け入れる余地をつくりうる。学ぶことの価値も、私はこの開かれに見いだす。知識は、自らの外側に残されているものへの自覚を広げ、そこに向けられる責任を深めていく。

アート、科学、仏教は、主体と世界の関係を組み替える力を通じて、私の作品のうちで出会う。科学的探究は前提を検証に開き、美的経験は知覚の条件を変え、仏教の実践は特定の見方を拘束力あるものにする執着をほどきうる。私はこれらの力を、交換可能な関係へと導く。作品との出会いのなかで、思考の運動は美的経験としての強度を帯び、美的経験は既存の見方から自由になる契機となる。その出会いのなかでは、新たな視点をひらく働きを、三つの営みが互いに引き受け合うことができる。

物質としての存在も、この探究に属している。大きさ、持続、身体の位置は、作品によって何が知覚されうるかに関与する。作品が異なる形をとるとき、それを経験する関係も変容する。私はその移行を、作品における思考の持続として捉える。出会いは、その思考に身体を伴う状況を与える。鑑賞者自身の存在が、いかにして世界は見えるようになるのかという問いの一部になるのである。

最初の出会いには、驚嘆の力があってほしい。理解はその経験から、好奇心によって可能になる速度でひらかれていく。作品は、まだ理解していないものに関わり続ける理由を差し出す。既存の認識の枠組みがほどけ始めるとき、知覚し、学び、想像する余地がどれほど残されているのか。その発見へと鑑賞者を招きたい。

私の制作は、理解可能な関係の厳密さと、それを捉える立場を問い直す自由を、ともに保持する。その二つを出会わせることで、一つの視点の限界を、さらなる可能性の始まりとして感じられるものにしたい。作品は、人がそれまで見ようとしなかったものへと眼差しを開くとき、その形を越えて作用し始める。


参照資料

以下の資料は本文の美術史的記述を支える。本文で展開した哲学的な接続は、本ステートメントの立場を示すものである。

  1. The Metropolitan Museum of Art. “Dancing on the Roof: Photography and the Bauhaus (1923–1929).” ↩
  2. Centre Pompidou. “Vera Molnár — Speak to the Eye.” ↩
  3. Whitney Museum of American Art. “Programmed: Rules, Codes, and Choreographies in Art, 1965–2018 — Art & Artists.” ↩
  4. 河口洋一郎. 「『BIOMECANICA――河口洋一郎の異形博物誌』展によせて」. 東京大学総合研究博物館. ↩
  5. National Galleries of Scotland. “Sublime.” ↩